「素人の立場」ということ (平成24年度生徒会誌『嶺』原稿)

平成25年3月1日

 

 幸運なことに、去年は何度か母校の大学を訪れる機会に恵まれました。 学舎はすっかり新しくなっていましたが、それでも「あのとき、 この場所でこんなことがあったな…」などと当時を思い出したりして、 なんとも懐かしいひと時を過ごすことができました。
 標題の『素人の立場』という言葉に出会ったのは私が大学に入学した頃です。 もう、かれこれ40年近い昔になります。当時は、全国に吹き荒れた大学紛争も収まり、 どこかしらけた感じが漂ってはいたものの、構内は落ち着きを取り戻していて明るく 華やかな雰囲気に包まれていました。また、現在のように入学して すぐさま専門教育に追われることもなく、最初の2年間はどの学部の学生も すべて教養部というところに籍を置き、様々な学問に幅広く接することができる仕組みになっていました。 そこでは、自分の専門にとらわれることなく自らの視野を広げ、学問や社会の在り方、 自分自身の生き方などを自由に考えたりできるゆとりの時間が許されていました。 近現代文学(漱石「それから」・助川先生)、哲学(プラトン・大沼先生)、 物理(核時代における科学と政治・豊田利幸先生)などはとてもすばらしく興味深い授業でしたし、 数学(微分積分)さえも楽しかった思い出として残っています…。
 その教養部の講義のなかで私が最も影響を受けたのが、梅津済美先生の英語でした。 授業は、古代ギリシャの詩人ホメロスの『イーリアス』(英訳本)を講読するだけなのですが、 物語の中身と先生の解説の面白いことといったらありません。中学校からずっと英語嫌いで苦手だった私ですが、 すっかり引きこまれてしまいました。物語(叙事詩)はトロイ戦争(ギリシャ対トロイア)を 題材に紀元前8世紀頃作られたものですが、この授業のなかで、私は、 人の営みには古今東西に関係なく多くの共通点があることに気づかされ、とても驚きました。 戦死した親友(どこかゲイっぽい)パトロクロスを悼み、憎悪向きだしに戦いに戻る アキレウス(ギリシャの勇者)の血のたぎり。アキレウスに討たれたヘクトール(トロイヤの勇者)を 悲しむ母親ヘカベーの嘆き、などなど。日本には亡くなった人があの世に渡る三途の川という考え方がありますが、 古代ギリシャの地にも彼岸と此岸を隔てるステュクスの河があるとか…。 少々脱線しますが、みなさんはアキレス腱の言葉の由来を知っていますか。 アキレウスの母である女神ティティスが我が児を不死身の身体にしたいと ハーデス(冥府)の泉に浸けるのですが、両足首を持って浸けたことで泉の水が そこだけ付着しなかったため、“へなちょこ”色男パリスが放った矢が踵(足首)に 当たってアキレウスは死んでしまうのです(この部分はイーリアスにはありませんが…)。 今でも、優れた古典に触れる意義を熱心に話される先生の講義が、 当時の口調のままに私の脳裏に浮かんできます。ほかにも、広島原爆直下のでき事を詠んだ 栗原貞子の詩『うましめんかな』などを教わり、原子力、とりわけプルトニウムと人間は 共存できないという自分の信念もそのとき培われたのではないかと思います。
 また、先生は人間の分(ぶ)という話をよくしてくださいました。 身の丈2メートルに満たず、普段は理性的であるけれど時に感情に支配されてしまい 大きな失敗をしてしまうことがある人間、そして、きれいな水と空気がないと生きていけない人間、 その人間の力量をきちんと見極めたうえで、人生や社会の幸福はどうあるべきかを考える 必要があると言う意味です。この中で、先生は学生に対して静かに『素人の立場』の 大切さを説かれました。つまり、専門家(玄人)の知識や技術は大切ではあるけれど、 一方で専門家であるが故に人間の分をわきまえずに物事を判断してしまいがちな危うさへの警句です。 同時に、人は面倒なことなど「専門家に任せておけばよい」と考えてしまいやすいという愚かさに対する戒めです。 そして、素人だからこそ分かる真実があり、素人だからこそ考え、行動しなければならない という立場に立とうという呼びかけです。イギリスの銅板画家で 詩人ウィリアム・ブレイクの研究家でもあった先生は、多くの優れた文学作品の中から、 そして太平洋戦争と原子爆弾投下の悲劇からこのことを読み取っておられたのです。 法学部に進む直前の私は、「民主主義とはかくあるべし」という私なりの考え方を、 英語の授業から育ませてもらったように思います。当時はまだ教員になるなどという 確たる気持ちはなかったのですが、今思うと、卒業後高校教員を目指したのは、 今は亡き梅津先生との出会いがあったからかもしれません。それから今日まで、 社会科の教員として、また、一社会人として、私はこの『素人の立場』を忘れないでいようと心がけてきました。
 長々と思い出話をしてしまいましたが、津東高校のみなさん、 とりわけ卒業されるみなさんに伝えたいことの一つは、高校時代からの数年間の出会いや感動は、 みなさん方一人ひとりの人生に大きな影響を与えるに違いないということです。 私くらいの年齢になると、先週読んだ本や観た映画の内容を思い出せないことがあるのに、 ずっと昔に教わった恩師の言葉や映画の内容は活き活きと思い浮かべられることに驚きます。 若い頃の経験や思考の価値がいかに大きいか、ひしひしと感じているところです。
 もう一つは、多くのみなさんが進む大学などでは、自分自身で興味関心事を選び、 そのことについて深く考えたり行動したりできる自由な時間を持てるということです。 高校までは、定められた教科を忙しく勉強させられている感覚が強かったことでしょう。 しかし、これからは自らの関心事を通して、「限りある人生をいかに生きるか」 「どのように社会と関わっていくか」などのテーマについて、じっくりと考えてみてほしいものです。 そして、そうした誠実な営みの中で、生涯を通じて尊敬できる恩師や友人との出会いがあれば、 さらに人生の彩りが豊かなものになることでしょう。
 津東高校の生徒のみなさんには、どうか、この若さに満ち溢れた数年間を大切に 愛おしんで生きて欲しいものです。そして、世のため人のために尽くそうという志を心に 携えた生き方を歩んでくれることを期待しています。がんばれ! 津東高生!