◎サルトルの実存主義について・・・過去の先輩の感想です・・・

 

1. どれも難しく・・・けれどサルトルの考えはすごく納得できた。「自分で自分を絶望的にしたに過ぎない」というのを読んで納得してしまった。私は今将来のことが決められずとても悩んでいる。「もうあかんわ」と何度思ったことか。本当に絶望的だった。でもそれは自分で努力していないということがわかった。「そこからいつでも脱出できるという可能性の中にある。」というのを読んで「よし、もっと自分から一歩前へ出る努力をしてみよう」と思えた。なんでも自分で決めることができるけれど、自分で責任をとらなければいけない。誰かがこうしろといったからと責任を押し付けてしまうことがあるが、自分の行動に責任をもてるようになりたい。


2. 43歳にして哲学という私の人生では一番縁の遠い学問を今勉強しているのかと思うと、何か場違いのような気がする。昔テレビか何かのコマーシャルで「哲学する」といった言葉を知ったように思う。それ以来私の頭の中から哲学という言葉はきれいさっぱりなくなっていた。

   自由だから、平等だから、権利があるから、自分勝手な解釈をして、自分に損のないように、本来の意味も理解せずに、結果として今日の思想があるということを忘れて行動していると思う。

   実存主義思想家が共通して批判する「自己の実存を忘れて、すべてを合理的に処理できると考える思い上がった理性であってそのものではない。」という一節が、本当の意味がわかりませんが、何か自分の心に残った一節です。

 

3. 私は今この年にして人生を変えてしまうほどのたいへんな問題をかかえております。周りの人たちの私を思ってくださる有難いアドバイスのおかげで、仕事を続け、また通信の勉強を続けさせていただいている状態にあります。サルトルの「自己の可能性を見つめ、・・・常に着手し、常に行動・・・それが人間の生というもの」「絶望的な絶望はない・・・自分が絶望的な行為をしているから・・・。だから(逆に)そこからいつでも脱出できるという可能性の中にあります。・・・」に胸をうたれました。 

   サルトルの言葉に出会え私に少し勇気が湧き出てきました。絶望的な絶望はない。常に着手し常に行動、自分の行いに自信を持ちまた自分を思ってくださる仲間たちの意見を聞かせていただき前向きにがんばっていこうと思います。

 

4. 私はサルトルのいう、人間は自由な存在であり、どういうあり方を選ぶかは各人の全くの自由である。そしてそれに全面的に責任を負わなければならないという考えに共感した。それは何をやるのも自由だけども、それには、責任がついてくるという考えである。世の中は学校や会社である程度束縛されている人が多いが、それは、自由から逃げているのではないか。世の中に全く自由で、全面的に責任を負っている人はいるのだろうか、よく自由という言葉を耳にするが、本当は自由が一番たいへんなことではないのだろうかと思う。だから人間は自然に組織に入ろうとするような気がする。そして束縛があるから自分のやりたいことが見つけられるのではないか。何もかもが自由だったら、結局無気力な人間になってしまいそうです。

 

5. 現在、俺たちは戦前の頃に比べると、自分の進路も就業も結婚相手も自分で決めることができる。考え方にも自由があり、行動にも自由がある。いろんな自由の中にどっぷりつかって、時の流れていくままに流されていくと、あっという間に年をとって、気がついたら死んでいた。ということになるんだと思う。どうしようもないようなことは仕方がないが、自分のことは自分で決め、その結果に責任を持って生きて行こうと思う。

 

6. 私はサルトルが好きだ。なぜなら彼が「神は存在しない」という前提で主張しているからである。私は無神論者であるから、神によって「自己」や「実存」が与えられる、というキルケゴールやヤスパースの主張が理解できないし、そうして得た「自己」を「主体的」である、とする考えには矛盾を感じずにはいられない。

   だから「人間は自らつくるもの以外の何者でもない」と主張するサルトルに一番共感できるのだと思う。ということで、今後の自己形成計画を立ててみようと思ったのだが、・・・いい案が浮かばない。何をしたいか、何ができるか、自分でわかっていないからだろう。「自由の刑に処せられている」のは全くもって迷惑なことである。自由なんてものがなく、型どおりの生き方や最善と思われる生き方を神様が示してくれればとても楽なのだが、神はいないし、楽な不自由より辛い自由を求めるのが人間であるのだから、人間とは矛盾した生き物なのだなあ、と笑いたくなる。そして私はその矛盾した人間でいたいから仕方がない。それに誰にでも平等に課されたものだと思えば少しは気も軽くなるだろう。

 

 

7. 実存主義という人たちの考えの一端に触れて思うことは、みなそれぞれ真理だなあというか、そのように共感できる部分があります。神から現代哲学は脱皮しているということを確認し、サルトルの「自由の刑」に処せられているという表現にうなずきます。・・・私の周りのとても親しい人が、しばしば教科書の中にあるような表現で言葉にしてくれることがあります。・・・「哲学」について話すことはほとんどありませんが・・・その親しい人は体験からなのか、それとも勉強からか、教科書に出てくるような表現を知っています。映画や小説、現代では漫画にだっていろいろなエッセンスがこめられていると思います。・・・教育の行き届いた識字率の高い日本では、皆が思想家の名前や本を知らなくても、そんな表現には触れることができるのかもしれません。各個人がいかにその言葉の中に自らの体験とシンクロさせ、リアリティをもって正しさを認識できるのかが、ひとつの生き方のコツなのかもしれません。自己責任とは生活でも聞く言葉です。まさしく私自身の責任ですべて決まるのだと思います。仕事も勉強も恋愛も。意思を拘束と呼ぶのかどうかはしりませんが、意識して何かを変えることは可能であり、「アンガジュマン」にも同意します。倫理の教科書はなんだか僕に感動をくれます。今回のレポートに取り組んで、なんだか嬉しかったです。他の人にもそうやって思ってほしいなって思います。そうしたらもっとよい学校、よい社会に段々と変わっていくことでしょう。非行や犯罪なんて減るかもしれません。国境をなくすのは神ではなく・・・、まず人類共通の言葉そして教育なのかもしれないと思いました。

 

8.  実存主義思想家たちの思想には理解することが難しいものもあるが、共感できる部分も多くあった。中でもサルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という言葉はたいへん重く感じられた。それは私の考えとよく似ているからである。私は人間とは何らかのグループ・組織などに所属したいという欲求をもっていると思う。もちろんこれには家族も含まれる。所属するということは、ある程度束縛されること、すなわち自由から逃れることだと思う。人間は自由の刑を全うするために生きているのではないだろうか。私には本当の自由というのは何なのかよくわからないが、束縛され限られた時間のなかにあるものであって、決してもてあそぶようなものではないと思う。この考えと照らし合わせてみると、通信制というのは自由という位置にあると思う。なぜなら、自分がやるかやらないかで前に進むか否かが決まるからである。私はこの松高通信制に所属することで与えられた自由というものを全うして、卒業という新たな自由を手に入れるため日々努力していこうと思う。