第6回


「1」

104〜参照。

○唐末から五代十国の約50年間は、節度使などの武将が活躍します。日本では源頼朝の鎌倉幕府(1192年)から江戸幕府が倒れるまで(明治維新1868年)長く武士の政権が続きますが、中国ではこの時期を除くと、長く科挙によって登用された「官僚」が国家を支え、また社会の中心であったともいえます。

○宋は、国内では節度使などの武人の勢力を弱め、科挙をより強化して優れた文人を登用するなど文治主義をとり、そのため逆に外交的には、北方や西方の「遼」(モンゴル系契丹族)、「西夏」(チベット系タングート族)、「金」(ツングース系女真族)に苦しめられ、毎年金品を贈るなどして平和を維持した。ただし社会や経済は発展し、庶民の熱気に満ちた時代となった。(p98下「宋代の都市 開封の繁栄」参照。)


「1」 下線部A

科挙を受験する人の様子は、P105欄外参照。たいへんな難関です。

新興の地主層には、一族のなかから科挙に合格した官僚を出し、大商人をかねるものもいました。

「2」 下線部@ 世界史上、モンゴル帝国を超える領域を支配した国はありません。p109の地図でその広さを実感して下さい。

「2」 下線部B

モンゴル人第一主義について、モンゴル人(元朝)が他民族をどのように支配したかがわかるように説明してください。

問5
論述問題

歴史にもしもということはないかもしれませんが、この元寇の際に、台風が来ずに日本が敗れていたらどうなっていたでしょうか。想像をふくらませるのもいいでしょう。
また、現在での日本とモンゴルの関わりを書いてもいいですね。朝青龍などを挙げて、相撲についてでもいいです。
「3」 作業 草原の道、シルクロード、海の道をていねいに書き込んでください。地図中の点線は現在の国境線です。例えばシルクロードが現在のどの国あたりを通っていたかということも確認してみてください。

「4」 (4)

「北虜南倭」は、明が衰退する原因となった「北虜」と、「南倭」の両方について、説明してください。p117をよく読んでください。

「4」 (7) 中国東北地方を根拠地とした少数派の女真族である清は、多数派の漢民族を統治するために“あめとむち”を使い分けたさまざまな方法をとりました。懐柔策は「あめ」(優しい政策)、弾圧策は「むち」(厳しい政策)にあたります。p118をよく読んでください。
「5」 下線部A

第3代のこの皇帝と第6代の皇帝の異教徒に対する対応の仕方は対照的なものでした。p129をよく読んでください。

「5」 下線部B 下線部Bの皇帝が愛妃のために建てた墓廟は、p114欄外の写真です。とても美しいですね。テレビで見たことあるかもしれませんね。

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